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金剛山赤不動明王院塾生 慈辨

jiben.exblog.jp

呪いの末路

私は、長年祈祷専門僧として活動を続けて居るが、どうしても救え無い案件がある。

それは、呪いの因縁《カルマ》である。
これだけは、完全に切る事は難しい。
何故ならば、始まりが一方的な怨みの念だからである。

そもそも、他人を怨むと言う事が因縁に繋がるのである。

世の中には極悪人も存在します。
しかし、呪いに依り解決しようとしても、堂々巡りだと知るべきである!

そんな事は早く忘れ《放念》、新しい人生を歩む事がしあわせの第一歩に繋がるのです。

今回は、稚拙な事は書きません。
私が扱った事例を紹介します《以下事例》

あれは、今から10年前。
ある方が、娘さんの事で相談に来られました。

優しかった娘さんが、三ヵ月前から急に豹変したのです。
まず、菜食主義だった娘さんが肉魚を生で食べ、いきなり攻撃的に成り、部屋はゴミだらけ。
悪臭が漂う中で平然としている!

それに、神社仏閣を嫌って唾を吐き、夜中には奇声を上げる。
とても正常では無い。

心療内科の受診をしたが、何の効果も無いと言う。
私には解って居た。

完全な憑依である。

これを抜くには、並大抵な事では無理である。
何故か。
本人の命が保たないのである!

過去に様々な祈祷僧が挑み、失敗し、自らは裁判、拘留の憂き目に遭った記録を参照すれば明らかである。

私は、お母さんとお父さんの気持ちに打たれました。
娘を助けたい一心で頼む父母の心。

私は、急ぎ準備に取り掛かりました。

各分野の専門家《弟子、友人》の尽力に依り、全てが揃いました。
そして、本人、御家族の前で行いました。

因縁解脱法。

私も命掛けである。

負ければ、私も連れて行かれます。
加持祈祷は長時間に及びました。

しかし、最後に御本尊様の御力に依り降伏出来ました。

些細な怨みの代償にしては、割りに合わないと思いませんか?

その後、娘さんは回復して、現在は私の弟子である。

南無大日大聖不動明王尊
金剛合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝


誰かを恨むまではいかなくても日々暮らしていく中で怒りという感情は出ます。
ある特定の人に対してそんな感情が溜まっていくと自分で思わずとも生霊を飛ばしていたら……と時々考えます。

そしてその代償に自分が憑依されると考えたら恐ろしいです。

穏やかに暮らすためにも必要以上に苦手な人に近づかないことも身を守ることだと私は思います。
(でも本当は、その特定の誰かとこの世できちんと関わることが修行なのかもしれません)

慈辨

# by jiben | 2018-03-22 06:00 | 赤不動明王院より

呪い


呪いは可能である!

しかし、呪いが相手に作用した時点で同じ事が自分にも起きます。

ただ起こるわけでは無い。
何倍にも成って返って来る事を覚悟せねばならない!

当院には、呪術に関する経典はほとんど揃って居ると言っても過言ではない。
ほとんどが数百年前の経典である。

それらを熟読すれば解るのは、この法を真剣にやれば出来ると言う事である。
言わば捨て身の法である事に気づく。

何故か?
呪いの掛け方は書け無いが、呪いを進めれば、必ず一命を落とすと断言出来る。

まさに、執念の鬼と化さねば成就は無く、徒労に終わるだろう。
徒労だけでは無く、必ず憑依を呼び込みます。

ですから、一命を落とす覚悟が必要なのである。

専門家に頼んだから私は大丈夫。と考え、軽はずみに呪いの世界に足を踏み入れた場合も同じである。

怨めば怨まれ、落とせば落とされ、殺せば殺されるのである。
例外は無い。

一番良いのは、放念する事である。

放念出来ず、どうしても悔しいと言うのであれば、その人より大きな人に成り、見返してやれば良いのです。

そんな事は不可能だと言う方は、自分から逃げて居るのです。
努力もせず、良い結果など無いのです。

必ず出来ます。
但し、並大抵な事では、到達は無い。

しかし、呪いに依り思いを遂げ様とする依り、よほど現実的である。

私は、弟子たちに『進む努力もなしで成就は無い』と説いて居る。

分からない事は學び、出来無い事は努力で解決する。

それでもダメなら、神仏に祈り、努力を重ね続ける事である。
必ずや、光明を知る時が来る。

南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝

誰かを呪うほどの出来事にあったことはありません。
万一そんなことがあっても放念できる自分でいたいです。


そして努力すること。
正直、私の苦手なことです。
20代・30代何も考えずその時を生き、“自分はあきらめが早い”と決めて楽な方へと流れて暮らしてきました。
確かに自分から逃げていました。

40代になった今、少しずつ自分と向き合うという作業をしています。
向き合う努力をしながら神さまに出逢いました。
進む道は合っていると教えてもらったように思っています。

慈辨

# by jiben | 2018-03-21 06:00 | 赤不動明王院より

始まり



私は、春彼岸が無事終了した時点で新たな行法に入ります。
皆さんがしあわせを実感できるように、自らに行法を課し実践します。

ここでは内容を公表しませんが、密教塾を購読されて居る方なら解るはずです。
一口にしあわせの実感と言っても、漠然としてお判りになら無いと思いますが、それを実感できるようにする行法です。

私も当年で齢六十五。
過酷ではありますが、やり遂げる所存で御座います。

始まりには、決断が無ければ一も百も千も無い。
難しければ難しいほど、やり遂げた暁には幸福感が待って居るのである。

全てにおいて、机上の空論は何も産まず、徒労しか無い。

求め、努力を重ねた結果は必ず残ります。
人生は挑戦の繰り返し。
失敗を恐れて何もせず、時間と年を浪費すれば後悔しか残りません。

全てに始まりがあるように、始まりには必ず終わり《終点》が存在するのである。

南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝


「自分がやらねば」、「誰かのために」、と行動される先生の信念を尊敬しています。
有言実行というのは簡単なことではないです。

私もいつか後悔の念だけが残っていかないようにしなくてはと改めて思います。

慈辨

# by jiben | 2018-03-20 13:00 | 赤不動明王院より

追憶


私にも、皆さんと同じように様々な過去があります。

では、何故過去があるのか?
答えは、一生懸命に生きて居るからなのです。

例えば、過去に捉われて生きる時、あなたも私も、生きて居る事が苦痛になって来ます。

何故か?
良い時だけを見つめる時、今の状況に、不満と過去への憐憫が生ずるからである。

人間に生まれてカルマ《因縁》の無い人は、唯の一人も居ません。

何故か。
カルマもなく、悟りと覚醒に満ちた人であれば、生まれる必要も無いのである。

この世は、檻の無い動物園だからである。
良い人も悪人も、全て同じ檻の中に居るのである。

これを否定出来る人が居るのなら、教えて頂きたい。
但し、いい加減な事は許しません。

過去にこんな話がある。

男は肉親の縁薄く、若い時に両親と死別。
日本各地を放浪するが、やっと美しい妻と結ばれ、しあわせの絶頂にあった。

男は一生懸命に働いた。
妻と子供に囲まれ、このしあわせが未来永劫に続くと信じて働いた。

だが、魔の時が突然襲い掛かって来た。
それは、妻と子供の死である。

男は絶望した。
何故自分なのか?
何故こんな目に会わねばならないのか。
考えても答えは出て来ない。

毎日が地獄だった!
妻との日々を追憶する時、男は居ても立っても居られ無い苦痛にのたうち、精神が崩壊して仕舞うかと思ったほどである。

その時、男は考えた。
どんな事にも、答えは存在すると。
しかし、容易には答えを見い出す事は出来無い。

妻との思い出の部屋は埃にまみれ、あの頃の面影は無い。
男の心は荒み、涙に暮れた。

しかし、男の心を支えたのは幼い頃から続けて来た武術であった。

男は、生きるとは何かを題材に選び、文武両道を胸に學んだ《一心不乱に》

そして、紆余曲折の後に教えられたのが、妻と子供からのメッセージだった。

人は生を生き、死を受け入れる時、真の學びに目覚める。

今、苦しみの中に居る人は、絶望してはいけない。

學びの中に居る事を知るべき、と私は考えます。

南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主 永作優三輝

過去があるから今がある。
過去の出来事から教えてもらったことを教訓に同じ間違いはしない。
そうやって日々を重ねて行くができるのもこの世に生まれることができたから。
良いことも悪いことも全て受け入れて向上していける自分でいたいです。


# by jiben | 2018-03-17 13:00 | 赤不動明王院より

久遠の力


正に普遍。
皆さんもご存知の通り、地球が鉱物に依り形成されて居る事は小学生にも理解出来る事です。
しかし、何故鉱物なのかを考えた事がありますか?

それは、正に久遠《普遍》だからである。

久遠の力《くおん》は、誰でも持つ事は可能なのです。
それは、信念を確立する努力から生まれます。

人間は死んだら終わり。と考えること自体が、久遠の力を遠ざけて居る事に氣づくべきである!

ここで、魂の創生の順番をお話しましょう。

まず、人間が全ての始まりと考えるのは傲慢である。

人間がこの世に誕生した時を考えて下さい。

大地があるから、陸地、海上があります。
そして生物の誕生。
それから長い年月を経て人間の誕生。

このくらいの事は誰でも解ります。
しかし、魂の段階で理解して居る方は少ないで在ろう。

魂は全てに存在します。

順番で言えば、鉱物霊、植物霊、動物霊、人間霊。
大別すれば以上になる。

私達の本性は、霊体なのです。

ただ肉体を持った時点で、様々な力は忘却します。
その力を呼び覚まし、現在に活かすのはあなたの努力次第である。

自分が眼を開けず、忘却の中に彷徨えば、終生分からず一生を終えることが通例である。

そして、死後に氣づくのである。

何故、死後に意識があるのか?

南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝


死んだときに気づく。
# by jiben | 2018-03-14 06:00 | 赤不動明王院より